まぁ坊の気ままな旅日記

ご訪問 ありがとうございます。<(_ _)>

軽キャンからピコ、マッシュに乗り換です。
節約旅行で各地の名産物を買ったりして
楽しんでいます。
宜しくお願いします(^_^)/

2017年10月12日「上田城跡公園にて」命を賭けた恋 プリンス松平忠厚。

松平忠厚 彼はアメリカ国民に日本人の優秀さを初めて認めせた男です。


嘉永4年(1851年)8月24日信濃上田藩第6代藩主・松平忠固の二男
として江戸で生まれました。

旗本松平家(上田藩の飛び地、塩崎知行所5000石現在の長野市)
を継ぎ更級郡塩崎村の領主となります。


廃藩置県で世の中が変わり彼は築地のキリスト教会に通います。
鈴木親長と嫡男の鈴木銃太郎親子も彼に誘われ入信する事になります。


1872年(明治5年)
忠厚は教会で洗礼を受け、親の松平忠固が決めた妻と一児を塩崎村に残し、
異母兄の松平忠礼とともにアメリカに私費留学します。


鈴木親長親子は福沢諭吉の勧めもあり鈴木銃太達が組織した晩成社の役員
として北海道十勝の開拓に行きます。


松平忠厚は、田安徳川家出身の福井藩主、松平 春嶽(まつだいら しゅんがく)
と縁のあるニュージャージー州のラトガース大学付属グラマースクール
で英語を学びます。


1875年
ラトガース大学に入学し工学を専攻します。同大学には当時、勝海舟や岩倉具視の子息ら20人ほどの日本人学生も在籍しています。


1874年 
頭脳明晰な忠厚はハーバード大学に移り、1879年に卒業します。
一説には彼は主席で卒業したと言われています。


1879年(明治12 年)
ニューヨークの建設会社ニューヨーク・ローン・インプルーブメント社に
入社後、ウースター大学でも建築と土木を学びます。


この年彼はラトガース大学前で本屋を営んでいた陸軍元大将アーチボルト・サンプソン(Archibald Sampson)の娘、カリー嬢(白人系当時19歳)と恋におちます。
この年二人はニューヨークで結婚しました。


通説では我太平洋の架け橋の新渡戸稲造とメリー・エルキントン明治23年ですが
アメリカ女性のとの国際結婚の第1 号は、松平忠厚とカリー・サンプソンです。


兄の忠礼は、1879 年(明治12 年)に帰国します。その後の兄は外務省御用掛、
宮内省式部官に勤務。明治17 年の華族令で子爵になります。
その後貴族院員議員に推挙されますが辞退します。
1895 年(明治28 年)、46 歳で死去します。


弟の忠厚は、帰国せず、カリー嬢と結婚。忠厚、28 歳、カリー、19 歳でした。


国元の塩崎では「殿様がけがらわしい毛唐女とできてしまった」と領民たちは
憤慨します。 


兄は即離婚を認めて、残された忠厚の子供を他家と養子縁組させ
弟を松平家から勘当する事で領民たちを納得させます。


忠厚は、マンハッタン高架鉄道会社に、シビルエンジニア(土木工学技師)
として入社します。


折から、マンハッタンとブルックリンを結ぶブルックリン・ブリッジの建設が着工
していて、忠厚は8th アベニューの延長と1st アベニューと2nd アベニューからイース
ト・サイドまでの設計を任されました。また、測量のアシスタント・エンジニアも担当。


非凡な彼はこのころ三角法を使った計算法考案したことから
アメリカの土木業界で一躍有名になりました。


大陸横断鉄道であるユニオン・パシフィック鉄道の主任測量士として招かれ、ワイオミング州、アイダホ州、モンタナ州、ネブラスカ州各州の鉄道敷設事業に関わります。


1884年
ペンシルベニア州ブラッドフォードの公式エンジニア (civil engineer) に任命され、アメリカにおける日本人初の公職者となります。


測量に関する英語論文も多数発表し、「ニューヨーク・タイムズ」紙や「デトロイト・ポスト・トリビューン」紙などで、「日本人はアメリカ人に勝る」と紹介されました。


結核を患い、その療養も兼ねて、1886年にコロラド州に移り、
鉄道測量技師として働きます。


忠厚らの招きでコロラド州には多数の日本人が鉄道労働者として移民しました。


2000年のコロラド州の統計では日系の血を引く住人が州内に約19000人います。


鉄道労働者として移民は人種差別から白人労働者が日本人の下で働くことを嫌い、
ボイコットされた事の対策の一因である。


明治21年(1888年)1月24日
コロラド州デンバーにて死去。
享年37。


1952年
コロラド州初の正式な日本人市民としてデンバー市内のリバーサイド墓地に記念碑が建てられます。


忠厚の長男・太郎は日本人初の米国軍騎兵隊員、
二男・欽次郎は日系人初の市長(メリーランド州エドモンストン)になりました。


1988年
子孫のベティ・マツダイラ・リードが上田を訪問します。
地元の学校に記念品を贈呈しました。

1994年
 天皇・皇后夫妻が米国が訪問した折には、孫のハル・マツダイラ・デント
 と接見しました。


忠厚にはゲリー・デントという曾孫がいる事が日本に伝わります。


映画ニューヨークの恋人の初めのシーン
ブルックリン・ブリッジの完成式典から始まりました


好きな映画なので何度も見ました 
まさか、あの橋が、松平忠厚達に作られていたとは・・・


アメリカ西部開拓の鉄道工事も彼の測量法が使われていたなんて


方や兄の忠礼もアメリカの主要大学の卒業生の中から成績優秀者
のみに与えられるファイ・ベータ・カッパ (Phi Beta Kappa) を受けています。
当時の藤井松平兄弟のパワーは凄いです。


しかし帰国後の兄忠礼は渡米により西洋思想にふれ自由恋愛に憧れ
離婚騒動をおこし周囲の者達を困らせました。


大名家の寿命は何処も短命が多い時代、彼はそれを悟って、好きな女性と結ばれ
子供を作り育てながら、世紀の大事業を次々と熟した彼の人生は熱燗です。


法律に疎かった忠厚は自分の考案した測量法を著作権登録しなかったため
一家はいつも貧しかったそうです。


残された奥さんや子供達も苦労したらしいですが、彼らの子孫達は
現在も彼に劣らず、したたかに今を生きています。


2017/12/19

×

非ログインユーザーとして返信する