まぁ坊の気ままな旅日記

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2018/9/20 「角館歴史村・青柳家」武器蔵


道路に面して青柳家には黒塗りの簓子(ささらこ)塀があり、八双金具のついた
薬医門の矢板には、万延元年(1860)大工棟梁柴田岩太郎の銘が記されています。
上級武士にのみ認められるという青柳家の薬医門をくぐります。
青柳家の象徴の薬医門は、1860年(万延元年)に藩への貢献が認められ、
佐竹氏より特別に建築が許可されたものです。

入館料500円を払いパンフレットを貰います。広げてみると敷地内の地図が
描かれています。青柳家は同じ武家屋敷の石黒家の南隣にあり、3,000坪の
敷地に築200年の貴重な母屋があります。

築200年の母屋は外からしか見学出来ません。当時この入り口からの出入りを許される者は、屋敷の主と主より上の身分の者か、城主の使いの者だけと聞いた事があります。

主屋は寄棟萱葺き屋根の鍵屋で、座敷は現存する角館の武家屋敷のなかで最も豪華です。
敷地3,000坪の広い庭には、600種類もの花や木があり四季折々の表情があるそうです。
春に見せる見事な満開の桜もその一つです。

武家屋敷の見学者も海外の親子連れが目立ちました。見た感じ台湾の人みたいでした。
青柳家は廃藩置県の明治時代、まれに地主として成功し、屋敷は江戸時代よりも広大に
なり使用人の数も増えます。

建物に入ると随分と使い古びた駕籠が目に入ります。かなり昔のものかもしれません。

青柳家は、もともと甲府、水戸、秋田と移住して来ます。

仕官先の芦名家の血筋が途絶えお家断絶後、佐竹北家に仕官して家臣となった家柄です。

角館春慶塗の器が置いてあります。江戸時代の人達が使っていたものかもしれません。

武器蔵を探検します。青柳家は戦国時代、青柳和泉守と甲斐の国で言われるように
武器を作る家柄のようでした。

甲斐の国司、武田信玄のもとで関東最強の武士軍団の鎧兜も作っていたようです。

代々の役職は納戸役を多く勤め、実禄は104石。高い格式を誇っていました。

主君の芦名氏は源頼朝公の平泉攻めで手柄を立てたと言います。

芦名氏家臣の時代は会津若松で武器製造などの指導的立場だったかもしれません。

青柳家、会津の名城鶴ヶ城の普請でも活躍していたかもしれません。

近代に入ってからの銃も展示されていました。一番上の銃は、幕末のジャンヌダルクこと新島八重さん愛用の銃と同じかもしれません。

江戸時代の武家屋敷の配置図のようです。

夜着(掛布団)
青柳家で大切に保存していた客用の掛布団です。

青柳家の初期の主君は京都の公家の子息です。
名家大納言家から角館北家に養子に入りました。


京都を懐かしんだ主君は角館を京風にしたと言われます。
デザインもどこか京の匂いが漂います。

武器蔵を後にして次の展示コーナーへと移動します。


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歴史メモ  佐竹 義隣(さたけ よしちか)

佐竹 義隣(さたけ よしちか)は、佐竹氏一門の佐竹北家第8代当主。
佐竹北家角館初代所預。
権大納言高倉永慶の次男。


佐竹北家は、先代当主義直が宗家の世嗣となったため、元和7年(1621年)
に一度絶えたが、義隣の母が佐竹義宣の妹であったため、寛永5年(1628年)
に北家を相続して再興させた。明暦2年(1656年)には、断絶した蘆名氏に
代わり角館所預(城代)となり、3,600石を領した。


故郷を懐かしんで、京に似た地形の角館の山河に「小倉山」、
「加茂川」などと命名した。天和元年(1681年)、
隠居して家督を嫡男の義明に譲った。 Wik抜粋

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