まあ坊の気ままな旅日記

軽キャンからピコ、マッシュに乗り換です。
貧乏車中泊を極める日記書きながら老後資金
を積み上げるための投資日記も書いてます。

2017年10月12日「上田城跡公園にて」上田博物館を探検です。

2017年10月12日9時45分


2015年の秋旅以来の2度目の上田訪問です。

上田城跡公園の真田神社は、いつも参拝者が絶えません。
日本人の真田びいきは、いまも健在です。

高台から城下を見下ろす景色も最高です。

今回も上田博物館を見物しました。入場料金は500円です。

分散している博物館3ヶ所が、これで見学出来ます。

戦国時代の火縄銃でしょうか

少し地味そうな鯱です。

ここは珍しく館内の撮影が禁止の看板は無かったので少し撮影してみました。

城下町の移り変わりを説明しているみたいです。

上田城のミニチュアの模型です なかなか良い出来栄えです。


ピンボケで恐縮ですが、歴史的に貴重な駕籠です。

この籠は旅の途中病死した真田信之の正妻小松姫を、上田まで運んだものです。

小松姫は小柄な方のようです。

忍者窓だそうです。



博物館を出て 城の跡地を散策しました。







こちらの博物館は撮影禁止なので、館内の写真はありません。

広い公園をのんびりと探索です。

 お堀の池にはオシドリたちが羽を休めていました。


愛車に戻り知恵を散歩させます。


2017年10月12日10時38分
知恵の散歩を終わらせて、次の目的地に移動します。


2017年10月12日「上田城跡公園にて」命を賭けた恋 プリンス松平忠厚。

松平忠厚 彼はアメリカ国民に日本人の優秀さを初めて認めせた男です。


嘉永4年(1851年)8月24日信濃上田藩第6代藩主・松平忠固の二男
として江戸で生まれました。

旗本松平家(上田藩の飛び地、塩崎知行所5000石現在の長野市)
を継ぎ更級郡塩崎村の領主となります。


廃藩置県で世の中が変わり彼は築地のキリスト教会に通います。
鈴木親長と嫡男の鈴木銃太郎親子も彼に誘われ入信する事になります。


1872年(明治5年)
忠厚は教会で洗礼を受け、親の松平忠固が決めた妻と一児を塩崎村に残し、
異母兄の松平忠礼とともにアメリカに私費留学します。


鈴木親長親子は福沢諭吉の勧めもあり鈴木銃太達が組織した晩成社の役員
として北海道十勝の開拓に行きます。


松平忠厚 は 田安徳川家出身 福井藩主 松平 春嶽(まつだいら しゅんがく)
と縁のある ニュージャージー州 のラトガース大学付属グラマースクール
で英語を学びます。


1875年
ラトガース大学に入学し工学を専攻します。同大学には当時、勝海舟や岩倉具視の子息ら20人ほどの日本人学生も在籍しています。


1874年 
頭脳明晰な忠厚はハーバード大学に移り、1879年に卒業します。
一説には彼は主席で卒業したと言われています。


1879年(明治12 年)
ニューヨークの建設会社ニューヨーク・ローン・インプルーブメント社に
入社後、ウースター大学でも建築と土木を学びます。


この年彼はラトガース大学前で本屋を営んでいた陸軍元大将アーチボルト・サンプソン(Archibald Sampson)の娘、カリー嬢(白人系当時19歳)と恋におちます。
この年二人はニューヨークで結婚しました。


通説では我太平洋の架け橋の新渡戸稲造とメリー・エルキントン明治23年ですが
アメリカ女性のとの国際結婚 第1 号は、松平忠厚とカリー・サンプソンです。


兄の忠礼は、1879 年(明治12 年)に帰国します。そのご兄は外務省御用掛、
宮内省式部官に勤務。明治17 年の華族令で子爵になります。
その後貴族院員議員に推挙されますが辞退します。
1895 年(明治28 年)、46 歳で死去します。


弟の忠厚は、帰国せず、カリー嬢と結婚。忠厚、28 歳、カリー、19 歳でした。


国元の塩崎では「殿様がけがらわしい毛唐女とできてしまった」と領民たちは
憤慨します。 


兄は即離婚を認めて、残された忠厚の子供を他家と養子縁組させ
弟を松平家から勘当する事で領民たちを納得させます。


忠厚は、マンハッタン高架鉄道会社に、シビルエンジニア(土木工学技師)
として入社します。


折から、マンハッタンとブルックリンを結ぶブルックリン・ブリッジの建設が着工
していて、忠厚は8th アベニューの延長と1st アベニューと2nd アベニューからイース
ト・サイドまでの設計を任されました。また、測量のアシスタント・エンジニアも担当。


非凡な彼はこのころ三角法を使った計算法考案したことから
アメリカの土木業界で一躍有名になりました。


大陸横断鉄道であるユニオン・パシフィック鉄道の主任測量士として招かれ、ワイオミング州、アイダホ州、モンタナ州、ネブラスカ州各州の鉄道敷設事業に関わります。


1884年
ペンシルベニア州ブラッドフォードの公式エンジニア (civil engineer) に任命され、アメリカにおける日本人初の公職者となります。


測量に関する英語論文も多数発表し、「ニューヨーク・タイムズ」紙や「デトロイト・ポスト・トリビューン」紙などで、「日本人はアメリカ人に勝る」と紹介されました。


結核を患い、その療養も兼ねて、1886年にコロラド州に移り、
鉄道測量技師として働きます。


忠厚らの招きでコロラド州には多数の日本人が鉄道労働者として移民しました。


2000年のコロラド州の統計では日系の血を引く住人が州内に約19000人います。


鉄道労働者として移民は人種差別から白人労働者が日本人の下で働くことを嫌い、
ボイコットされた事の対策の一因である。


明治21年(1888年)1月24日
コロラド州デンバーにて死去。
享年37。


1952年
コロラド州初の正式な日本人市民としてデンバー市内のリバーサイド墓地に記念碑が建てられます。


忠厚の長男・太郎は日本人初の米国軍騎兵隊員、
二男・欽次郎は日系人初の市長(メリーランド州エドモンストン)になった。


1988年
子孫のベティ・マツダイラ・リードが上田を訪問します。
地元の学校に記念品を贈呈しました。

1994年
 天皇・皇后夫妻が米国が訪問した折には、孫のハル・マツダイラ・デント
 と接見しました。


忠厚にはゲリー・デントという曾孫がいる事が日本に伝わる。


映画ニューヨークの恋人の初めのシーン
ブルックリン・ブリッジの完成式典から始まりました


好きな映画なので何度も見ました 
まさか あの橋が 松平忠厚達に作られていたとは・・・


アメリカ西部開拓の鉄道工事も彼の測量法が使われていたなんて


方や兄の忠礼もアメリカの主要大学の卒業生の中から成績優秀者
のみに与えられるファイ・ベータ・カッパ (Phi Beta Kappa) を受けています。
当時の藤井松平兄弟のパワーは凄いです。


しかし帰国後の兄忠礼は渡米により西洋思想にふれ自由恋愛に憧れ
離婚騒動をおこし周囲の者達を困らせました。


大名家の寿命は何処も短命が多い時代 彼はそれを悟って 好きな女性と結ばれ
子供を作り育てながら世紀の大事業を次々と熟した彼の人生は熱燗です。


法律に疎かった忠厚は自分の考案した測量法を著作権登録しなかったため
一家はいつも貧しかったそうです。


残された奥さんや子供達も苦労したらしいですが 彼らの子孫たちは
現在も彼に負けず したたかに今を生きています。


2017/12/19


2017年10月12日「上田城跡公園にて」藤井松平伊賀守家。

2017年10月12日「上田城跡公園」にて


上田城の歴史は真田昌幸により千曲川沿いに上田城(天正11年(1583年)着工)
を築いたことから始まりました。

慶長5年(1600年)の第二次上田合戦では、西軍に与して徳川秀忠軍3万2千を
数千の兵で撃退しましたが、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍が敗れたため、
昌幸・真田信繁(幸村)父子は紀州九度山に幽閉されます。

その後上田城は破壊され 解体された資材で彦根城が出来ます。
真田昌幸に代わり東軍に与した嫡男の真田信之が父の領地を継承しました。

信之は元和2年(1616年)に上田に移り住み、徳川幕府体制下における
上田藩9万5000石が成立しました。

元和8年(1622年)幕府の命令によって信之は信濃松代藩へ移封されます。
真田氏に代わって、信濃小諸藩より仙石忠政が6万石で上田城に入ります。

宝永3年(1706年)、仙石忠政の孫にあたる藩主仙石政明は但馬国出石藩
へ移封されます。

宝永3年(1706年)、仙石政明に代わって、藤井松平家(ふじいまつだいらけ)
松平伊賀守家の松平忠周(まつだいら ただちか)、が5万8000石で入ります。

藤井松平家(ふじいまつだいらけ)は、松平長親の五男利長を祖とする
松平氏の庶流で十八松平のひとつです。

藤井松平家には松平山城守家と松平伊賀守家の2家があり
松平山城守家3代・松平信吉の次男・忠晴を初代とする傍系が松平伊賀守家です。

宝永3年(1706年)、松平忠周は領内の支配体制を確立した名君で、京都所司代
や老中を歴任しています。国元で他界した時は彼の死を惜しんだ将軍吉宗より
使者が使わされて多額の弔意金も送られました。

忠周亡きあと愚鈍な藩主に治められた上田藩は 相次ぐお家騒動や一揆で衰退
日本でも有数の貧乏藩になり藩士の生活は困窮を極めたそうです。

分家筋からお家騒動で婿養子に迎えられた第5代藩主松平 忠学(まつだいら たださと)は、文化10年(1813年)に藩校・明倫堂を創設して文武を奨励して改革を進めました。

松平 忠学の血縁の者達を押し退け養子に迎えられた姫路酒井本家出身
平 忠固(まつだいら ただかた)は信濃上田藩の第6代藩主になります。
かなりの持参金を持って来たと言われています。

伊賀守系藤井松平家第8代当主にあたります。
嘉永7年(1854年)の日米和親条約と、安政5年(1857年)の
日米修好通商条約調印時の老中の一員です。

鎖国派の徳川斉昭と対立しながら、終始一貫して日本が大英帝国の植民地
になる前にアメリカと交易条約を結ぶ開国を主張し、幕府の開国論を牽引
したリーダー的存在であった。

最初の老中就任時は松平 忠優(まつだいら ただます)という名前で、2度目の
老中就任時に松平忠固と改名しているが、同一人物です。

この時松平忠固の中小姓に抜擢されたのが
勘定奉行の松村親賢の三男松村親長のちの鈴木親長です。

北海道の東部に位置する十勝の開拓に力を尽くした鈴木親長は
信濃の国上田藩勘定奉行松村次郎太夫親賢の三男として生まれています。
幼名は三九郎、字は平郷です。

松村次郎太夫親賢は親賢と言う名前からして松平側室家の出身で
伊賀の守家の親族の一員と推測します。

この当時上田藩の勘定奉行で活躍したのは服部家だと鴻池家からの
文献でわかります。
松村家は名誉的な奉行職と判断出来ます。

(嘉永4年11月)1852年 親賢の三男鈴木親長は主君の命で家鈴木家(側室家?)
に養子に入り奥女中鈴木直と結婚して松平伊賀守松平忠固の中小姓に抜擢。

明治元年 鈴木親長は「会読頭取」「武学校お目付け」で役職を終え
上田を去り一家は上京、駒込片町で養蚕の事業をしますが1年で廃業。

翌年の納税額 売上金四三〇円に対し百円の課税に大打撃
妻の実家からの借財で納税を済ませます。

この頃主君の弟松平忠厚(プリンス松平の名で世界的な著名人)
と親交を深めます。






2017/12/17