まあ坊の気ままな旅日記

軽キャンからピコ、マッシュに乗り換です。
貧乏車中泊を極める日記書きながら老後資金
を積み上げるための投資日記も書いてます。

2017年10月12日「上田城跡公園にて」藤井松平伊賀守家。

2017年10月12日「上田城跡公園」にて


上田城の歴史は真田昌幸により千曲川沿いに上田城(天正11年(1583年)着工)
を築いたことから始まりました。

慶長5年(1600年)の第二次上田合戦では、西軍に与して徳川秀忠軍3万2千を
数千の兵で撃退しましたが、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍が敗れたため、
昌幸・真田信繁(幸村)父子は紀州九度山に幽閉されます。

その後上田城は破壊され 解体された資材で彦根城が出来ます。
真田昌幸に代わり東軍に与した嫡男の真田信之が父の領地を継承しました。

信之は元和2年(1616年)に上田に移り住み、徳川幕府体制下における
上田藩9万5000石が成立しました。

元和8年(1622年)幕府の命令によって信之は信濃松代藩へ移封されます。
真田氏に代わって、信濃小諸藩より仙石忠政が6万石で上田城に入ります。

宝永3年(1706年)、仙石忠政の孫にあたる藩主仙石政明は但馬国出石藩
へ移封されます。

宝永3年(1706年)、仙石政明に代わって、藤井松平家(ふじいまつだいらけ)
松平伊賀守家の松平忠周(まつだいら ただちか)、が5万8000石で入ります。

藤井松平家(ふじいまつだいらけ)は、松平長親の五男利長を祖とする
松平氏の庶流で十八松平のひとつです。

藤井松平家には松平山城守家と松平伊賀守家の2家があり
松平山城守家3代・松平信吉の次男・忠晴を初代とする傍系が松平伊賀守家です。

宝永3年(1706年)、松平忠周は領内の支配体制を確立した名君で、京都所司代
や老中を歴任しています。国元で他界した時は彼の死を惜しんだ将軍吉宗より
使者が使わされて多額の弔意金も送られました。

忠周亡きあと愚鈍な藩主に治められた上田藩は 相次ぐお家騒動や一揆で衰退
日本でも有数の貧乏藩になり藩士の生活は困窮を極めたそうです。

分家筋からお家騒動で婿養子に迎えられた第5代藩主松平 忠学(まつだいら たださと)は、文化10年(1813年)に藩校・明倫堂を創設して文武を奨励して改革を進めました。

松平 忠学の血縁の者達を押し退け養子に迎えられた姫路酒井本家出身
平 忠固(まつだいら ただかた)は信濃上田藩の第6代藩主になります。
かなりの持参金を持って来たと言われています。

伊賀守系藤井松平家第8代当主にあたります。
嘉永7年(1854年)の日米和親条約と、安政5年(1857年)の
日米修好通商条約調印時の老中の一員です。

鎖国派の徳川斉昭と対立しながら、終始一貫して日本が大英帝国の植民地
になる前にアメリカと交易条約を結ぶ開国を主張し、幕府の開国論を牽引
したリーダー的存在であった。

最初の老中就任時は松平 忠優(まつだいら ただます)という名前で、2度目の
老中就任時に松平忠固と改名しているが、同一人物です。

この時松平忠固の中小姓に抜擢されたのが
勘定奉行の松村親賢の三男松村親長のちの鈴木親長です。

北海道の東部に位置する十勝の開拓に力を尽くした鈴木親長は
信濃の国上田藩勘定奉行松村次郎太夫親賢の三男として生まれています。
幼名は三九郎、字は平郷です。

松村次郎太夫親賢は親賢と言う名前からして松平側室家の出身で
伊賀の守家の親族の一員と推測します。

この当時上田藩の勘定奉行で活躍したのは服部家だと鴻池家からの
文献でわかります。
松村家は名誉的な奉行職と判断出来ます。

(嘉永4年11月)1852年 親賢の三男鈴木親長は主君の命で家鈴木家(側室家?)
に養子に入り奥女中鈴木直と結婚して松平伊賀守松平忠固の中小姓に抜擢。

明治元年 鈴木親長は「会読頭取」「武学校お目付け」で役職を終え
上田を去り一家は上京、駒込片町で養蚕の事業をしますが1年で廃業。

翌年の納税額 売上金四三〇円に対し百円の課税に大打撃
妻の実家からの借財で納税を済ませます。

この頃主君の弟松平忠厚(プリンス松平の名で世界的な著名人)
と親交を深めます。






2017/12/17




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