まぁ坊の気ままな旅日記

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「えさし藤原の郷(岩手県・奥州市)」①鎌倉殿の13人撮影直前の風景です。 (。^ω^。)ノ

[2021マッシュ秋旅]2021年10月5日
「えさし藤原の郷(岩手県・奥州市)」
①「鎌倉殿の13人」撮影直前の風景です。 (。^ω^。)ノ

「奥州市江刺」は奥州藤原氏初代清衡公とその父・経清公が住んだ土地です。清衡公は2011年6月、ユネスコの世界文化遺産に登録された平泉にある「金色堂」を建立した方です。『歴史公園えさし藤原の郷』は平成5年(1993)、この奥州藤原氏の興亡を題材にした大河ドラマ「炎立つ」の撮影を機に整備された平安時代の歴史テーマパークです。約20ヘクタールの敷地に、日本で唯一、平安貴族の住宅、寝殿造の建物を再現した「伽羅御所」や、武家館を再現した「経清館」、「清衡館」、政治を司る「政庁」など、大小約120棟の建物が建てられています。

2021-10-05・01-01


2021年10月5日 くもり 
7時23分
お世話になった道の駅「石鳥谷」を出発。次の目的地に向かいました。


8時25分
目的地の『歴史公園えさし藤原の郷』に無事到着出来ました。
2018年の春旅以来の訪問です。
あの時は春のゴールデンウィークで激混みの中での見学、限られた時間の中、すべての施設を見学出来ずに次の目的地に移動となり、今回はじっくり見学させて貰います。


2018年5月4日の記事です。(^_^)/


広い駐車場には僕達の車だけです。営業時間前の到着でも駐車場は解放されていました。

無料駐車場・乗用車600台/大型バス8台

建てかけられた看板の注意事項を読みながら、
屋外設置のトイレにお邪魔しました。


妻はビッケのトイレタイムとお散歩です。
 o(*´ー`*)o------vUo・ェ・oU ィェーィ♪


営業開始時間9時に近くなると関係者の車が続々と到着します。
愛犬ビッケを所定の場所、2段ベットの上のペースに移動。


飲み水を置いて窓を開放してお留守番です。v・。・V わん♪
僕達もマッシュを後に受付に向かいました。

入口の看板を読んで歴史の勉強です。 (@ ̄_ ̄)
この時の大人の料金は800円。ペットの入場は禁止です。


入場券売場には僕達だけです。検温チェックは合格。(^_^)/
大人二人分を払いチケットとパンフレットを貰います。

入口に気になる看板が目に入りました。(´・ω・) んんん?

200円でスタンプラリーのガイドブックをゲットです。(^_^)/

えさし藤原の郷のキャラクター達の紹介が書かれています。(^-^)


園内マップの指定するコースを回ると迷わなくていいですね。(^_^;)
僕は撮影で忙しくなるのでスタンプの作業を妻に委託します。
( ^ω^)よろしくだぉ
                (*´ー`*) 了解!


今回、僕は独自のコースを探索ですよ。 …(((;´ω`)ススス

出入口の傍には巨大な大太鼓です。
屋根付の屋外休憩所にはテーブルとイスが設置されています。


広々したイベント広場です。
遠くに見える櫓の下にも記念撮影用の看板が見えます。


「牛車 記念撮影」コーナーです。

定員は2名で土足厳禁。


平日のせいかもしれませんが閑散としています。
今回は僕達の貸切状態です。


2022年の大河ドラマの撮影地に内定していると思われる「えさし藤原の郷」です。
国内のいろいろなドラマの撮影地にもなっているようです。


施設のトイレもあるロケ資料館にお邪魔します。
 |ヒョッコリ|q・ω・)お邪魔します

ここにも牛車が展示されています。

出演者のサイン色紙が展示されています。
「真田丸、おんな城主直虎、麒麟がくる」出演者のサインです。

天地人、竜馬伝、平清盛、テレビ朝日「陰陽師」の出演者達のサイン。
今は亡き大物女優さん達などの手形も拝めました。


坂本冬美さんの手形もありましたよ。
色紙館を後に次の展示スペースに移動します。…(((;´ω`)ススス


ビデオシアターのコーナでは、ドラマの撮影風景が流されています。
「麒麟がくる」コロナ下で撮影された明智光秀の大河ドラマ、
最後まで収録出来て良かったです。(^_^;)

歴代の大河ドラマのパネルを眺めていたら、
その時代の記憶が蘇って来ました。
メインロケ地の旗もあります。

綺麗なトイレにお邪魔してからロケ資料館を出ました。


2021年10月5日 くもり 9時45分
ロケ資料館を出て政庁(北側)に入ります。
歴史公園内に再現された政庁は古い時代と新しい時代の2つの形で作られています。
古い時代の北側の茶色の建物は、屋根、塀が板で造られています。

南側の朱色の建物は新しい時代のものです。

中に入ると両サイドに小さな小屋が建っていました。

片方の小屋の中に奥州藤原氏の三人のデーターが書かれていました。
初代 藤原清衡 金色堂を建立。
二代 藤原基衡 毛越寺を建立。
三代 藤原泰衡 無量光院を建立。

南側の朱色の新しい時代の政庁ゾーンに入ります。
平安時代の建物に塗った朱色は黄土という土を焼いて朱色にしてから塗っていました。


順路の案内板には、じっくり体験コース(120分)と、お急ぎコース(50分)です。
今回はじっくりと周らせて貰います。


正面に見える正殿はいろいろな儀式や会議をする所です。

資料館に入ると「黄櫨匂威大鎧(はじにおいおどしおおよろい)」が展示されてます。

宇治川の先陣で有名な佐々木高綱も所用した鎧です。


「萌黄匂縅鎧(もえぎにおいいとおどしよろい)」
平家の貴公子、平敦盛や二十歳の弓の名手、那須与一も着用していた萌黄匂いの鎧です。

暫し足を停めて平安時代の武具と軍装の看板に目をとめました。


次のコーナーに行くと・・・・・( "・ω・゛)
真田幸村と伊達正宗と直江兼続の兜

足軽の面接試験会場の気がしました。。。(^_^;)


卯の花威大鎧 (うのはなおどしおおよろい)

※卯の花威大鎧 (うのはなおどしおおよろい)
江戸時代中期以降に流行した復古調の大鎧。復古調とは、平安から室町時代の大鎧・胴丸・腹巻などを模範とし、その形式を取り入れた甲冑の総称。源義経着用と伝える大鎧(焼失)を参考にしたとも考えられます。


14歳の若武者、源義家と彼の指南役の藤原景季です。

源頼義の陸奥守着任


1051年(永承6年)鬼切部合戦で安倍軍に大敗した朝廷側は、阿倍の力に脅異を覚え、それを抑えるために武将・源頼義を陸奥守に任じました。


翌年5月、頼義は、3000もの武装兵を従えて国府多賀城に到着しました。
戦を避け、和議に持ち込みたいと考えていた藤原経清は、頼義の着任を緊張をもって迎えます。


頼義は、息子の義家を伴って下向していました。このとき14歳だった義家は、後々まで陸奥と深く関わっていきます。


※藤原景季
時代 平安時代中期
生誕 不明
死没 天喜5年(1057年)
主君 源頼義→義家
氏族 藤原北家利仁流
父母 父:藤原景通
兄弟 景季、加藤景清


藤原 景季(ふじわら の かげすえ)は、平安時代中期の武将。藤原北家利仁流、加賀介・藤原景通の子。兄弟に景清(加藤五)がある。源頼義の家人として知られる。


剣と弓に優れていたとも伝わる。前九年の役に従軍し、天喜4年(1056年)の黄海の戦いにおいて安倍貞任軍により頼義軍が敗走する中、踏み留まって奮戦するも最期は貞任に討たれる。20歳余の生涯であった。


椅子に座る源頼義。

向かって右が藤原経清

※藤原 経清 (ふじわら の つねきよ)は、 平安時代 中期の 陸奥国 亘理郡 の 豪族 。 『 尊卑分脈 』によると 藤原秀郷 の6代後裔。 陸奥権守 従七位下 に叙せられたのち 散位 。
別名: 亘権守、亘理権大夫
時代: 平安時代中期
死没: 康平5年9月17日(1062年10月22日)
・源頼義を裏切り安倍氏に組して捕縛され、頼義の面前に引出され、苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸挽きによって斬首された
生誕: 不明


藤原 経清の左が平永衡
※平 永衡(たいら の ながひら、生年不詳 - 天喜4年(1056年)ごろ)は、平安時代後期の陸奥国伊具郡の豪族で、伊具十郎と称し、八竜城を拠点とした。郡司であったとも在庁官人として陸奥国府多賀城に勤務していたとも言われる。父は不明だが、寛仁2年(1018年) - 治安2年(1022年)まで鎮守府将軍を務めた平永盛の子弟であると考えられる。あるいは、下総国の平氏の一族とする系図もあり、海道平氏、岩城氏と繋がる家系であったとする説がある。『陸奥話記』にのみ、その名が登場する。藤原経清は相婿、奥州藤原氏の祖である藤原清衡は義理の甥。


略歴
はじめ陸奥守藤原登任の郎従として陸奥国へ下向し、伊具郡を拝領する。奥六郡を支配する俘囚(ふしゅう)長の安倍頼時(頼良)の娘(史料による呼称は「中加一乃末陪」、読み方は「なかかいちのまえ」と目されている。


藤原経清室の「有加一乃末陪」は姉)を妻に迎える。1051年(永承6年)に始まる前九年の役においては、登任と頼時が戦った鬼切部の戦いでは安倍軍に参戦する。


敗北して更迭された登任の後任に源頼義が任じられ、頼時が朝廷に帰服すると頼義に従う。1056年(天喜4年)には阿久利川事件をきっかけとして再び安倍氏が蜂起したが、この時衣川の南にいた永衡、経清は頼義に従って戦っている。


だが2人とも頼時の婿であるからと疑われていた。さらにこの時永衡は、陣中できらびやかな銀の冑を着けているので、これは敵軍への通牒でないかと頼義に密告するものがあり、安倍氏への内通を疑われて殺される。
これが引き金となって経清は安倍氏の陣営に属し、前九年の役が長引く原因となった。
平永衡 - Wikipedia


脇殿を見ながら次に移動します。

次の展示物が見えて来ました。

正殿を  ( -_[◎]oパチリ

武蔵坊弁慶
薙刀を構える弁慶、迫力がありました。


義経と静御膳の所に政庁スタンプコーナーがあります。

※静御前(しずかごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性白拍子。母は白拍子の磯禅師。源義経の妾。


生涯
『吾妻鏡』によれば、源平合戦後、兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちて九州へ向かう際に同行するが、義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻される。吉野で義経と別れ京へ戻った。しかし途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られる。


同年4月8日、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。


静は、


しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
(倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)


と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、


妻の北条政子が


「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた。『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。


この時、静は義経の子を妊娠していて、頼朝は「女子なら助けるが、男子なら殺すように」と命じる。閏7月29日、静は男子を産んだ。安達清常が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。磯禅師が赤子を取り上げて清常に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められた。


9月16日、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたという。その後の消息は不明。  静御前 - Wikipedia


義経は幼いころ母の元に通う平清盛が父と思っていたそうです。
母と清盛の間に出来た妹もいたそうです。


貸切状態の政庁を  パシャッ! Σp[【◎】]ω・´)

政庁の門を出て移動します。
雨傘とカメラ、ステッキなどを持って移動します。


2021年10月5日 くもり 9時48分
政庁を出て次に移動します。
指定コースの順路から外れますが町並みを探検です。 (・ω・`。)キョロキョロ(。´・ω・)

映画の撮影に欠かせない街並みです。

何時の時代も酒屋さん。。。p[酒]q´ω `*)

庶民は、自分達で米や野菜などを作り一生懸命働いていました。
民家は貴族のお屋敷より柱も細く、質素に造られています。


貴族の服装は、華やかで見栄えはいいが重くて動きづらいです。
庶民の服装は、見栄えは悪いが動きやすいです。

平安時代、貴族は畳の上に薄い敷物などを敷き、衣をかけて寝ていました。
庶民は、床の上にそのまま寝るか、ワラで出来た敷物などを敷いて寝ていました。
町並みスタンプの設置場所を見逃しましたが、 次に移動します。


2021年10月5日 くもり 9時52分
町並みを過ぎると伽羅御所(きゃらのごしょ)です。
門前の写真を撮ろうとしたら先客さんが歩いていたので、
中に入るのを待ってから ( -_[◎]oパチリ

 伽羅御所の牛車です。

牛車は貴族の乗り物で今でいう自動車です。
牛が引いて歩きます。
牛車は乗る人の階級によって車の種類が定められていました。


牛車には踏み台を用いて後ろから乗り、降りる時は牛をはずして前から降りました。
男女が乗るときは男が右側、女が左側と決まっていました。

ここも映画の撮影場所です。
大河ドラマ・真田丸、第4話「挑戦」で、法華寺にいる織田信長に真田信幸が馬を献上するシーンを撮影しました。建物内に織田軍の陣幕が下され、戦国時代の雰囲気が伝わる場面となりました。献上される馬とともに地元エキストラの方が献上人として参加しました。


正面、奥の高台に金色堂が見えます。池の向こうに無量光院があります。

伽羅御所
奥州藤原氏三代秀衡の館(後期の無寝殿造り)
貴族が住んでいた寝殿造と呼ばれる豪華な造りをしています。寝殿造りは、主人(秀衡)が暮らす寝殿を中心に、全ての部屋が渡殿と呼ばれる廊下でつながっている事、屋根は檜皮葺といって、檜の皮を何枚も重ねて造っている事が大きな特徴です。今では檜の皮が大変貴重なため、ここでは別素材を使用しています。広い庭では、蹴鞠というスポーツをしたり、池で舟遊びなどをして楽しみました。


靴を脱いで、傘やバック、ステッキを邪魔にならない場所に置いてから釣殿にお邪魔しました。
|釣殿|・ノω・)お邪魔ちます

釣殿から無量光院が見えます。
無量光院は奥州藤原氏三代秀衡が建てたお寺です。
度重なる火災で焼失し、平泉に"無量光院跡"として残っています。

※秀衡は、京都にある「平等院鳳凰堂」を模して、ひと回り大きく造りました。中には、阿弥陀如来を安置し、毎日拝んでいました。当時は伽羅御所から400メートル離れた位置にあったといわれ、その距離感を出すために、ここでは4分の1の大きさで造っています。


釣殿から眺める庭園の景色です。

釣殿で貴族達は歌を詠んだり、月見などをして楽しみました。

|出口|・ω・*)ノ ォヂャマシマシタ


靴を脱いで荷物を置いて階段を上がり西対にお邪魔します。

|ヒョッコリ|q・ω・)お邪魔します。

流石、貴族の御屋敷は豪華です。(。p゚ω゚q。) 

子供の衣装が掛けられています。
渡殿を通り寝殿の奥に進みます。…(((;´ω`)ススス


 |ヒョッコリ|q・ω・)お邪魔します

料理所
大盤所とも言い、料理をする場所で、一日2回の食事がここで「包丁」と呼ばれる料理人の手によって調理され、御所の各室に運ばれていきました。


豪華な貴族の料理が並んでいます。

※平安時代の貴族は主食はお米で、その他に6、7種類の料理が出ていたようです。「盃」として使われていたのが、"かわらけ"と言う素焼きの皿です。"かわらけ"は「清らかな器」と考えられていたので、ほとんどの場合、一度使用すると捨てられてしまうものでした。料理は薄めに味付けされていたから、好みで酢、ひしお、お酒などをつけて食べました。


デザートの数も流石貴族。

おせち料理
おせち料理は平安時代の朝廷での、節目・節句を祝う為の料理が一般に広まり、「おせち」になったようです。日頃、台所で立ち働く女性を正月くらいは休ませよう配慮から、造りおきのきく料理が中心でした。

平安貴族の料理です。

品目は
①お酒 ②酢 ③白米 ④ひしお ⑤塩 ⑥酥(乳製品)⑦煮魚 ⑧煮アワビ
⑨漬物 ⑩かぶの煮物 ⑪山いも


これから食事のようです。


俳句の募集をしてました。
才能が有ればチャレンジしたいですね。 (。-`ω-)ンー

寝殿の大広間は貸切で女性の団体さん達が使っていたので見学出来ませんでした。
豪華な庭の景色を眺めます。


寝殿の前の庭では蹴鞠などして汗を流しました。

奥州藤原氏、優雅な生活をしていたようです。
釣殿が良く見えます。

西対の元の場所に戻り靴を履いてバッグを肩にかけて庭の撮影です。
寝殿の大広間では女性指導員が女性達にストレッチなどを教えていました。

職員の男性が館内を監視しています。

無量光院の近くまで探検です。  (・ω・`。)キョロキョロ(。´・ω・)

小さな滝を発見です。(*`・ω・σ)はっレナω!!!

敷石が綺麗に敷かれています。
綺麗な清水が清らかな音を奏でて流れ落ちてます。
無量光院の屋根の鳳凰を n[◎]コω・`)パシャッ! 

寝殿前に戻ります。

伽羅御所とのお別れです。次に移動します。
 |出口|・ω・*)ノ ォヂャマシマシタ


2021年10月5日 くもり 10時24分
伽羅御所を出たところで妻と会います。
妻は、義経持仏堂と金色堂に辿り着けなくて一度戻って来たようです。

トイレタイムをとり、手持ちの地図を再度確認してから再チャレンジです。
僕は、金色堂に繋がる急な坂や階段を上るために登山用の靴とステッキを買い、
山登りの用意をして来ました。

登山用の靴は値段も高かったけど両足に負担をかけずに目的地まで行けました。
2本のステッキを使うと転ばずに山の上り下りが安全に出来ます。


金色堂は奥州藤原氏初代清衡が建てた中尊寺の中でも、最も代表的なお堂。
今もなお平泉に残っているもので、国宝第一号に指定されています。

前回は見れなかった黄金の金色堂に無事到着出来ました。
工事中なのかビニールシートが巻かれていて中が見れませんでした。(@´_`@)


工事が終わると、この扉が開いて中を拝見出来るかもしれません。

大河ドラマのロケが迫っているので撮影のための金色堂のお化粧直しかも知れません。
本物の金色堂では見る事が出来ない黄金の姿を拝めて良かったです。


高台から伽羅御所を見てみます。
ここから眺めると釣殿と寝殿の位置などが分かります。

度重なる戦いで辛い経験をした清衡は、平泉に中尊寺を建てる事で、
人々の心の安定を図ろうとしました。
またよりよい文化を取り入れようという気持ちから、

全財産と残りの人生を掛けて中尊寺を建てました。
帰り道は階段を降りないで少し遠回りの山道を歩きました。
無事、金色堂の見学が出来ました。階段を見ながら次のスポットに移動します。


2022年09月13日 
ご訪問ありがとうございます。m(__)m


追記              [壁]ω・`)チラッεεε゙(ノ´・ω・)ノタッタッタッεεεチラッ(´・ω[壁] 


えさし藤原の郷

撮影・2021年10月5日
施設情報
テーマ 平安時代
事業主体 江刺開発振興株式会社
管理運営 江刺開発振興株式会社
面積 200,000㎡
開園 1993年7月4日
所在地 〒023-1101
岩手県奥州市江刺岩谷堂字小名丸86-1
位置 北緯39度11分40秒 東経141度11分20秒

※2022年09月13日 更新

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