まぁ坊の気ままな旅日記

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「えさし藤原の郷(岩手県・奥州市)延命千年杉」②樹齢1000年を数える古代杉が猫に見えました。(=^・ω・^=)

[2021マッシュ秋旅]2021年10月5日
「えさし藤原の郷(岩手県・奥州市)延命千年杉」
②樹齢1000年を数える古代杉が猫に見えました。(=^・ω・^=)

歴史公園えさし藤原の郷 - 世界文化遺産平泉に至るゆかりの地江刺。歴史公園えさし 藤原の郷の公式ホームページ。奥州藤原氏の歴史と文化が体感できる歴史テーマパーク。

「奥州市江刺」は奥州藤原氏初代清衡公とその父・経清公が住んだ土地です。清衡公は2011年6月、ユネスコの世界文化遺産に登録された平泉にある「金色堂」を建立した方です。『歴史公園えさし藤原の郷』は平成5年(1993)、この奥州藤原氏の興亡を題材にした大河ドラマ「炎立つ」の撮影を機に整備された平安時代の歴史テーマパークです。約20ヘクタールの敷地に、日本で唯一、平安貴族の住宅、寝殿造の建物を再現した「伽羅御所」や、武家館を再現した「経清館」、「清衡館」、政治を司る「政庁」など、大小約120棟の建物が建てられています。

2021-10-05・01-02[2021マッシュ秋旅]


2021年10月5日 10時40分
金色堂を出て坂道を下り次のスポットに移動します。
池の向こう側に伊治城があります。

水連の花が綺麗に咲いてます。
ズームで  n[◎]コω・`)パシャッ! 

寄り道スポット6「アラハバキ」寄り道して行きます。( ^ω^)ノ


フジテレビ・逃走中・ロケスポット
城柵
《2014年1月5日放送 逃走中~奥様はかぐや姫~》
2020年大河ドラマ 麒麟がくる ロケスポット
城柵
【伊治城】斉藤軍と織田軍の戦いで、斉藤道三の居城「稲葉山城」の外門として撮影。
【厨川柵】光秀が堺に向かう途中の「比叡山の関所」や、斉藤軍と織田軍の「大柿城の戦い」の場面で撮影。舗装部分には土を敷いて、雨を降らせたり馬を走らせたりしました。


この舗装部分に土をのせて馬を走らせて撮影したようです。
撮影が終わると綺麗に元に戻しています。

城柵
城を敵から守るために造られたものです。敵が簡単に近づけないように、本来は、柵の前に土塁と空濠が造られています。木の城柵は東北地方でしか見られないものです。

厨川柵(くりやがわのさく)
現在の盛岡市に位置していた安倍氏の柵。今も厨川という地名が残っています。ここは左手に広い湿地、正面に雫石川、右手に日高見川(現在の北上川)を望む高い崖の上にあり、天然の要塞のような柵だったと言われています。前九年合戦で安倍軍が最後まで立てこもり、源頼義と清原氏の連合軍と死闘を繰り広げた場所です。この柵の先には、金の採掘によって安倍氏の後ろ盾になっていた物部氏(金売り吉次とその一族)が祭っていたアラハバキの神が再現してあります。


平安時代、武器として使われていた弓矢はフライパンを突き刺すほど強力なものでした。距離にすると、約250〜300mも矢が飛びました。

山間の小さな道を進んだら一つの石が見えて来ました。
石脇に建てられていた説明版を読んでみました。


アラハバキ


アラハバキの神は、古代の神で、朝廷にとって「まつろわぬ民」であった蝦夷(えみし)の神様という伝承があります。


このアラハバキは、平成5年大河ドラマ『炎立つ』で、朝廷軍と奥六軍の豪族・安倍氏の戦いの火ぶたが切られた「鬼切部の戦い」に際し、安倍貞任が自分の行く末と戦いの勝敗を占ったシーンに使われたものです。


アラハバキの神様です。(´-ω-`*)


城柵の脇にある小屋には弓矢などをしまっていました。

河崎柵を見学してみます。奥が藤のトンネルになっています。


河崎柵(かわさきのさく)
阿倍貞任の妻の父である金為行が預かっていた柵。伊治城とは日高見川(北上川)を挟んで対峙する位置にあり、安倍氏にとっては、朝廷側に相対する最前線の重要な柵の一つでした。前九年合戦の最中、身の危険を感じた藤原経清が一計を案じてこの柵に走り、安倍軍に合流しました。また源頼義の軍が、大敗した黄海合戦に臨むときに結集したのもこの柵の前でした。戦の趨勢をにらんで様々なエピソードを残した柵です。


藤のトンネルの中で少し涼みました。ε-(;-ω-`A) フゥ…

ここにも石の神様がいます。
敷き詰められた石の小路を歩いてみました。


日陰のアーケードを通り抜けると、小さな祠がありました。
何かの神様を祭っています。

城柵を後に次のスポットに移動します。


2021年10月5日 11時12分
城柵を見てから炎坂を登ります。
細い山道を汗をかきながら南郭に到着しました。ε-(;-ω-`A) フゥ…


コースの案内版をみて現在地を確認です。
目的地の清原館に到着です。


清原館は奥州藤原氏初代清衡の館です。(初期の寝殿造)
清衡館南門から入ります。
             |ヒョッコリ|q・ω・)お邪魔します

2016年
大河ドラマ 真田丸 ロケスポット


清衡館

武田家の居城である新府城として使用しました。家紋が入った旗などを揚げ厳粛な雰囲気の中、武田勝頼率いる武田軍が岩殿城に出発するシーンを撮影しました。


また、新府城の炎上シーンは、わらと小枝に実際に火を付け、特殊技術のスタッフがスモークを焚き行いました。「一回限りの撮影」という張りつめた緊張感が現場に漂いました。


藤原経清の息子・清衡は後三年合戦で源義家と手を結んで清原氏を滅ぼし、奥羽の覇者となりました。その戦いで父の時代から続いた館を失った清衡は、新しい館を再び江刺の地に建てました。


清衡は平泉に進出するまでこの館に住んだと言われます。こうした時代背景をもとに再現されたことから、この館を「清衡館」(豊田館)と呼んでいます。


建物は寝殿造の初期の様式で、東西南北の4つの部屋が渡殿(廊下)でつながれています。屋根はとち葺きで12mm程の杉板を50万枚重ねて造られています。


東・北・西対には主人(清衡)の家族が生活しており、家族が増えると部屋の数も増えるようになっています。


門をくぐり中に入るとスタンプコーナーがある休憩室があります。
バス停もあるけど、バスが走っているのでしようか。

|コッソリ|・ノω・)お邪魔ちます

小さな手洗いと奥には休憩室です。
平安時代中期、東北で起きた戦争の時代絵巻のパネルが展示されています。

前九年の役と後三年の役のパネルです。


この戦争は、源頼義の奥州赴任(1051年)から安倍氏滅亡(1062年)までに要した年数から、元々は「奥州十二年合戦」と呼ばれており、『古事談』・『愚管抄』・『古今著聞集』などにはその名称で記されている。ところが、『保元物語』・『源平盛衰記』・『太平記』などでは「前九年の役」の名称で記されており、それが一般化して現在に至る。これは源頼義が本格介入した年を基準として戦乱を9年間と計算したという説や、「奥州十二年合戦」が「後三年の役(1083年-1087年)と合わせた名称」と誤解され、12年から3年を引き、前段について「前九年の役」と呼ぶようになったなどの説がある。また戦乱を13年間としている書物もあり、年数計算については諸説ある。さらに、「役」の表現には「文永の役」・「弘安の役」(元寇)同様、華夷思想の影響が多分に見られ、安倍氏が支配した東北が畿内から異国視され、安倍氏自体も「東夷」として蛮族視されていたことを物語る。しかし後世に成立した『平家物語』などでは、安倍氏に同情的な記述も見られる。また、今日では「前九年合戦」という表記がなされることもある。 前九年の役 - Wikipedia


平安末期の東北最大の戦の内容が把握できる充実したパネルに感心しました。
休憩室を出て清衡館に行きます。


見学者が誰もいない館に靴を脱いで荷物を置いてカメラだけ持ってお邪魔します。

 |ヒョッコリ|q・ω・)お邪魔します


東 対 (ひがしのたい)
寝殿を中心に東の方角に位置しているため、東対と呼ばれます。丸柱は槍鉋(やりかんな)
や手斧(ちょうな)などで徐々に丸くして造っていったので、大変な手間暇がかかりました。


断面が8角形に近い角柱は、丸柱を作る手間を省いて途中の段階で作業を止めた形です。
したがって角柱よりも丸柱の格が高く、このような所にも身分の差が表れてました。
畳の上に座っている女性は身分の高い女性かもしれません。

女性の人形の後ろの壁に掛けられていたパネルの写真は、大河ドラマ「炎立つ」の女優さん達です。

男性の役者さん達も凄い顔ぶれです。

戦のスチール写真も迫力満点です。

昔の記憶が戻って来ます。


2021年10月5日 11時24分
館内の説明パネルに目をやります。
(〃 ̄ω ̄)


藤原清衡の生い立ち


藤原清衡は1056年(天喜4年)、藤原経清と安倍頼時の娘との間に生まれました。すでに前九年合戦は始まっていましたが、清衡は何不事由なく成長しました。


しかし1062年(康平5年)、安倍氏が破れ、父の経清が斬首された後、清衡の生活は一転しました。母が敵方の清原武貞に再嫁したために、清衡は父の仇の清原氏の中で己を殺して生きてきたのでした。


長じて義兄・実平、さらに異父弟の家衡と争うことになりましたが、源義家と組んで清原氏を滅ぼし奥羽の覇者となりました。


(〃 ̄ω ̄)


豊田館での暮らし(とよたのたちでのくらし)
1087年(寛治1年)に後三年合戦が終結後、清衡は母が再婚したことで名乗らざるをえなかった清原姓を藤原姓に戻します。


翌年、清衡は豊田館に居を構え、1094年から96年頃(嘉保年間)に平泉に居館を移すまで、この地暮らしました。後三年合戦で妻子を失った清衡ですが、再び妻を迎え、基衡が生まれました。清衡にとって、20数年を経て訪れた平和な時代でした。


(〃 ̄ω ̄)


豊田館の再建(とよたのたちのさいけん)


藤原清衡の別館「豊田館」は、後三年合戦で異父弟である清原家衡の攻撃を受けて消失しました。この戦で清原軍を敗り奥州の覇者となった清衡は、父の時代から続いた館にかわる新しい居館を、亡父・経清への思いから再び江刺に建てました(第二期豊田館)。


清衡は、平泉に進出するまでこの館に居住したと言われます。その館を再現したのが、寝殿造初期の建築様式が取り入られた「清衡館」です。


(〃 ̄ω ̄)


寝殿(しんでん)
寝殿造初期の建物で、栩葺(とちぶき)の屋根が特徴です。主の住まいである寝殿を中心に、東、北、西の三棟の対屋を渡殿(わたどの)で結ぶ構造になっています。


格を示すために寝殿の床を高くしていること、丸柱をしようしていることなど、寝殿造の様式が取り入れられ、京都の影響を受けたことが推定されます。


清衡館のメインには、権力の象徴の太くて大きな丸柱が2本並んでいます。

向かって右側は清衡の親戚コーナーかもしれません。
板の床に座っている若い女性は秀衡の新しい新妻かもしれませんね。 (*^ω^*)

向かって左側の神妙な顔つきの男性は秀衡に何かの報告に来たと勝手に推測です。

身内サイドに座っている男性は刀を持っているので、相手を牽制する役目かもと勝手に想像ですよ。権力の象徴の丸柱が並んでいます。

部屋の間仕切りは、細く割った竹を編んだ仕切り具の御簾です。
一旦、外に出て撮影です。 


北側の屋敷に来て見ました。 …(((;´ω`)ススス


|///|・ω|///| 説明版をじーと読んでみます。


北対(きたのたい)


寝殿を中心として北の方角に位置しているため、北対と呼ばれます。対屋(たいのや)の大きさや構
造は寝殿とだいたい同じで、その数に決まりはありませんでした。


寝殿と同様に板敷きの床で、御簾(みす)や几帳(きちょう)などで間仕切りをしていま
した。


豪華な肘掛が置かれている清衡の専用席と勝手に想像です。(;^ω^)


西対(にしのたい)


寝殿を中心として西の方角に位置しているため、西対と呼ばれます。丸柱で囲まれた空
間が母屋(もや)で、その中に寝室となる塗籠(ぬりごめ)がありました。


母屋の周りが庇(ひさし)、外側が濡縁(ぬれえん)で、柱や床の高さで身分の違いを表していました。


此方の館は豪華な山水画をバックに畳の上に豪華な肘掛と座布団付です。


館を拝見しているうちに気分は平安貴族です。( ^ω^)ノ


登山用の靴を履き荷物を持って現実の世界に戻ります。
館の近くの馬小屋です。凛々しい顔つきの白馬がいますよ。


寝殿の探検は続きます。 (・ω・`。)キョロキョロ(。´・ω・)
寝殿と東対を  パシャッ! Σp[【◎】]ω・´)


裏側の良い景色を パシャッ! Σp[【◎】]ω・´)


御屋敷の北側には櫓があります。

屋根の上に排気口の子屋根があるのは台所(厨くりや)です。

廊下を渡って御馳走を運んだようです。

この頃は各棟独立しているようです。


湯殿
当時は湯船に入るという習慣はなく肌着のまま熱湯の入った桶の上にすのこ敷いて蒸し風呂にしたり、肌着の上からお湯をかけたりしたようです。

井戸がありました。覗いて見たら雨水がたまっています。
清衡館を後にします。北側の門をくぐると北郭です。

2014年大河ドラマ「軍師・官兵衛」ロケスポット


北 郭


小寺政織の居城である御着城のお庭として使われました。官兵衛が馬に乗って登場するシーンでは、土煙りを表現するためにコーンスターチを使用しリアル感を演出しました。


また小屋の前には笠や蓑、横には俵や籠などの生活用品をセットし、塀の周囲には敵の侵入を防ぐための深い水堀を作り撮影が行われました。


軍師・官兵衛のロケ現場です。

今年の大河ドラマでも使われるかもしれません。
北郭を探検です。εεεε (っ*´Д`)っ

一軒の小屋があり、馬小屋もあります。

櫓の門もあります。


お利口さんな顔立ちなお馬さんです。

黒田官兵衛のロケ現場を後に次に移動です。

工房に到着です。
        |ヒョッコリ|q・ω・)お邪魔します

工房
城柵の中で暮らす人々の中には職人もおり、工房で作業していました。ここでは鉄の加工を行う工房を再現しています。古代東北人は独自の製鉄技術をもっていました。馬産地であったことから、馬具用に製鉄が行われました。また生活必需品としての蕨手等(わらびてとう)や藤原時代の武器であった舞草刀(もくさとう)も生産されました。舞草刀はその優れた切れ味から武士の間で憧れの的であったと言われています。


昔から南部鉄の技術は有名です。
作業場の上に神様のお札を祀っています。

舞草刀の事が書かれているパネルです。
読んでみたら舞草刀が日本刀のルーツのようです。

平安時代、東北が製鉄技術の最先端を走っていたようです。


いよいよ経清館です。


経清館(つねきよのやかた)


陸奥国府の官であった藤原経清は、奥六郡の豪族・安倍寄頼時の娘と結婚し、後に安倍氏とともに陸奥守・源頼義の軍と戦うこととなりました。


その経清が江差に移り住んだ11世紀半ば頃の地方豪族の一般的な館の造りであることから、この館を「経清館」(旧豊田館とよたのたち)と呼んでいます。


夏は涼しく冬は暖かい茅葺(かやぶき)屋根になっているのが特徴です。中は板敷きで、座るところに畳などを置きました。


            |経清館の門|q・ω・)お邪魔します

馬小屋に馬が2頭います。

         屋敷の全景を  ( -_[◎]oパチリ
逆光でうまく写せません。(‐ω‐;)

屋敷の中央に藤原経清が立っています。
武人らしい雰囲気が漂っています。

何時でも戦えるように兜と薙刀や刀が置かれています。
畳の上には丸い敷物が置かれているだけです。

経清館は武家屋敷の原型です。
屋敷の近くに建っている小さな館は家来が詰める宿直です。
戦の時、家臣達はここで待機していたようです。

夏涼しく、冬暖かい分厚い茅葺の屋敷です。

武家屋敷を探検です。  (・ω・`。)キョロキョロ(。´・ω・)
屋敷の裏側に独立した台所があります。

奥方様を隠し撮りです。  パシャッ! Σp[【◎】]ω・´)

ここもドラマの撮影現場です。
経清館休憩場です。 ε-(;-ω-`A) フゥ…少し休憩です。

東北地方の歴史パンフレットなどが置かれています。
手入れが行き届いた快適な休憩場です。

館内の説明パネルに目をやります。


|出口|・ω・*)ノ ォヂャマシマシタ


経清館を後に穀倉群を探検です。

穀倉群は、穀物の貯蔵庫を想定した高床式の建物です。
お米が水害で濡れないように高床式なんですね。


ここに一軒の物置小屋が建っています。

中を少し覗いて見ました。 覗くでござる!|ω・´)
昔のスコップが置かれている壁のパネルを読んでみました。
年貢制度を読んでみました。安倍氏は東北の独立を目指していたようです。

穀倉群を後に次のスポットに移動します。


2021年10月5日 11時54分
経清館を出て少し寄り道してから本命の場所に向かいます。
寄り道スポット3の義経持仏堂です。


弁慶と義経が迎えてくれます。曇っていた天気もいつの間にか快晴です。
義経と弁慶さんの御蔭ですね。

(。´・ω・) ん・・ 義経持仏堂スタンプの箱が少し傾いていました。


義経は、兄・源頼朝に京を追われ、10代の頃身を寄せてた奥州藤原氏三代秀衡を頼りに平泉にたどり着きました。秀衡の死後も遺言により、四代泰衡は義経を守りました。


しかし、頼朝の命令により、義経は泰衡によって攻められ、平泉にある「義経堂」で自ら命を絶ちました。「義経持仏堂」は義経堂を再現し、義経の供養のために造られたお堂です。


平安時代の建築様式を元に再現しており、正方形の屋根で外見も飾りが少ないです。ここでは、義経の最後を再現し、武蔵坊弁慶が持仏堂を守っています。


これから切腹する義経です。

武士の子息は切腹することを初めて教えられたそうです。
忠臣、弁慶に守られる中で武士の本懐を遂げられた義経は武士の鏡です。

640

( ̄ノ ̄)/Ωチーン (´-ω-`)人 i~ 合掌 


平安時代の建築様式で建てられたお堂です。

高台から見る京の都の景色を亡き義経は見ていると思います。

元のコースに戻ります。
順番が逆になりましたが寄り道スポット5の安宅の関に行きます。


義経持仏堂の直ぐ近くです。細い道を進みます。
安宅関に到着です。

物置の小屋が建っています。

義経一行の取り調べの様子が再現されてます。

安宅関の解説です。

顔を隠す義経。

義経を叩こうとする弁慶です。


詳しい内容はここに書かれています。(。^ω^。)ノ


全て探検出来たので帰るとします。景色もほんのりと紅葉してます。

えーくん(藤原えさし丸)とさっちゃん(阿倍左千代君)が見送ってくれます。

分かれ道の合流地点に到着です。都の塀が見えて来ました。


「寄り道スポット2・トリックアート」に寄り道です。

本当に飛んでいるように見えるから不思議です。

コロナ対策に入口にはアルコールの消毒液です。

此処でも建築用の機材が組まれています。

ドラマ撮影前のお色直しかも知れません。

中に入らせて貰います。        |コッソリ|・ノω・)お邪魔ちます

娘さん。( ^ω^)よろしくだお

( ^ω^)おっ 本物のさむらいだぉ

 記念撮影 n[◎]コω・`)パシャッ! 

トリックアート平安の館を出ると延命杉がありました。
延命と言うより猫の杉に見えました。

近づいてみます。

樹齢1000年の古代杉は凄すぎます。

鳥海山の噴火で埋まっていたそうです。

隣にお守りが売られていました。

歴史公園えさし藤原の郷開園二十周年記念の植樹があります。
望楼櫓前に記念撮影のパネルがあります。

アンパンマンやドラえもんステージで沢山の子供達を楽しませてきた「野外ステージ舞楽殿」です。

イベント広場に着きました、ゴールです。

思う存分歴史公園を楽しませて貰い感謝です。
もう、こんな時間になりました。

受付でスタンプ帳を確認して貰い

粗品のポケットティッシュのケースを頂きました。

織物で出来た京風のケースです。


藤原の郷の施設を出てから最後の記念に  n[◎]コω・`)パシャッ! 

あの建物は「御休み処えさし藤原の郷」です。 n[◎]コω・`)パシャッ! 

ゲート前を  n[◎]コω・`)パシャッ! 

入り口付近で旅行会社の人達と運営サイトの人達が話していました。


記念の石碑も  n[◎]コω・`)パシャッ! 

及川勉 先生も  n[◎]コω・`)パシャッ! 

※江刺開発振興株式会社 設立発起人
・及川勉(旧江刺市元市長)

・海老沢勝二(NHKエンタープライズ元社長)
・小佐野政邦(国際興業社元社長)


無事、マッシュに戻りお留守番のビッケと再会です。v・。・V わん♪

マッシュの中で軽くお昼を食べてから次の目的地に移動します。


2022年09月13日 

ご訪問ありがとうございます。m(__)m


追記              [壁]ω・`)チラッεεε゙(ノ´・ω・)ノタッタッタッεεεチラッ(´・ω[壁] 


えさし藤原の郷
撮影・2021年10月5日
施設情報
テーマ 平安時代
事業主体 江刺開発振興株式会社
管理運営 江刺開発振興株式会社
面積 200,000㎡
開園 1993年7月4日
所在地 〒023-1101
岩手県奥州市江刺岩谷堂字小名丸86-1
位置 北緯39度11分40秒 東経141度11分20秒


※2022年09月13日 更新

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