まぁ坊の気ままな旅日記

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「羽黒山(三神合祭殿)境内」出羽三山開祖・蜂子皇子御尊像~疾病退散を願って~( ^ω^)よろしくだお!

[2021マッシュ秋旅]2021年10月07日・山形県・鶴岡市
「羽黒山(三神合祭殿)境内」
出羽三山開祖・蜂子皇子御尊像
~疾病退散を願って~
( ^ω^)よろしくだお!

羽黒山頂の中心に建つのが羽黒山、月山、湯殿山の三神をあわせて祀る三神合祭殿です。現在の社殿は江戸時代の文政元年(1818)の再建ですが、山伏が滞在する長床(ながとこ)など中世にさかのぼる構造を残した貴重な茅葺木造建築物です。平成12年国の重要文化財に指定されました。羽黒山は標414mで、山岳信仰の中心地として知られ、開山は古く推古元年(592年)となります。参道は瑞心門から国宝の五重塔を通り、更に上ること2446段。石段の数は神社では日本一となり、香川県琴平町の金毘羅神宮は奥社まで含めて1368段の第二位、京都の伏見稲荷大社で1276段で第三位。出羽三山神社までは車での参拝も出来ますが、パワースポットの御利益は徒歩が上と言われています。

2021-10-07・05[2021マッシュ秋旅]
手持ちの地図と上下反対になるので注意!

2021年10月07日(木曜日)晴れ

09時35分

羽黒山の秘境、南谷を出てから参道石段に戻り、最後の急な坂道、三の坂を登りきると、左側の奥に寂れた建物が見えました。「羽黒山講堂(旧・圓珠院)」。今は廃墟のようです。

寄り道せず進むと「斎館」です。しばし立ち止まり  ( -_[◎]oパチリ

もとは華蔵院といい、元禄10年(1697)の再建である正穏院、智憲院と共に三先達寺院の一つで、羽黒山執行別当に次ぐ宿老が住んだ寺でしたが、明治の神仏分離の際、神社の「斎館」として残りました。江戸時代に山内にあった30余坊は、明治になって全て取り壊され、往時の山伏達の住した遺構として今に残る唯一の建物です。

予約すれば、宿泊したり、お昼の精進料理を頂けます。


終点の鳥居が見えて来ました。ゴールまであと一息です。
         トコトコ((((( *^ω^)

鳥居に入る手前の左側に護摩壇(ごまだん)があります。

護摩木を焚いて火の神を祀り祈願するところです。

到着です。 (。^ω^。)ノ
寄り道しながら、2446段の石段、山頂まで1・7kmの道のりを歩きました。
帽子をとり、一礼してから入りました。

手持ちの地図をチェックしながら探検開始です。 (。>ω<。)ノ

鳥居の手前に特別天然記念物、羽黒山の杉並木の記念碑があり、左に「能除太子御坐石(のうじょたいしおまし)」があります。1400年以上前に、出羽三山を開山した能除太子(蜂子皇子)が登上の折、休息した場所・・・あるいは、昇天のとき召された沓があった場所・・・と伝えられています。

厳島神社です。素晴らしい龍の彫刻です。

妻が先に参拝です。

妻が終わると、ビッケを妻に渡して、僕がかわりに参拝です。

アミ越しからも龍の彫り物の気迫が伝わりました。

厳島神社(いつくしまじんじゃ

宗像三神(むなかたさんじん)

・多紀理比売(たぎりひめ)神

・市寸島比売(いちきしまひめ)神

・多岐津比売(たぎつひめ)神

【海の神・航海の神・財福・技芸の神】

御利益・豊漁・海上安全・商売繁盛・芸能上達・財運増大


開祖の蜂子神社。
今回は、蜂子神社御開扉です。

蜂子皇子は、父・崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されたため、聖徳太子の手助けで宮中を脱出。

法名を弘海として出家し、丹後国由良(現・京都府宮津市由良)から海路、北へと向かい、佐渡などを経て由良(現・山形県鶴岡市由良)にたどり着き、出羽三山を開き、庄内の地を開いたというのが伝説があります。春旅では丹後国由良(現・京都府宮津市由良)を探検して来ました。(^_^)/


今年は蜂子皇子の足跡を巡る旅になりました。(^-^)

今回は、疫病退散を願って特別参拝期間です。

普段は見られない中の様子が拝見出来ました。

ビッケをリレーしながら二人とも参拝をしました。

厳島神社と蜂子神社。

蜂子皇子の御尊像と御尊影が拝めます。

これも護摩木を焚いて火の神を祀り祈願する所みたいですね。

蜂子皇子のお墓に行きます。

看板に宮内庁の文字があります。(^_^;)

宮内庁の注意書きが書かれてます。

職員の詰所には誰もいません。

正面にあるところが蜂子皇子の墓地です。

お参りしていきます。

墓地の門にも菊の御紋があります。扉の錆が痛々しい感じがしました・・・・(^_^;)

墓地の周りも手入れされていて綺麗です。

お墓参りを終えて次に移動です。

出羽三山歴史博物館の案内板です。

大木を見ながら進みました。

苔が凄い。

細い道を進んで行来ました。

大木の根を見ていると、今にも動き出しそうです。

駐車場に出ました。

此処にも、蜂子皇子の看板です。

真新しい地図の看板です。

古い方が、趣があって良いですね。

大木だらけです。

こちらは、御神木ですね。

元いた場所に戻りました。

天宥社です。

蜂子皇子の御尊像参拝に入ります。

 

 |500円玉|q・ω・)お邪魔します、見せて下さ~い。

受付に女性二人がいました。

参拝料500円支払って、手荷物、リックなどを降ろして見学させて貰いました。
貰ったパンフレットです。

5人の豪華なメンバーの像をありがたく拝見させて貰いました。

県内の個人さんが所蔵している蜂子皇子御尊像です。

展示されていた蜂子皇子御尊影です。左下は金剛童子、右下は除魔童子

江戸時代に書かれた御尊影の前で座らせて貰い暫らく見せてもらいました。

案内の女性に聞くと、蜂子皇子の御尊影は2枚存在しているそうです。

パンフレットに印刷されている絵は、50代天佑別当が描いたものです。
いくら見つめていても別れの時は来るものです、
親切な女性達にお礼を言ってから会場の天宥社を後にしました。

2022年08月25日

ご訪問、ありがとうございます。<(_ _)>


追記              [壁]ω・`)チラッεεε゙(ノ´・ω・)ノタッタッタッεεεチラッ(´・ω[壁] 


歴史・開山
出羽三山は、出羽三山神社の社伝によれば崇峻天皇の皇子、蜂子皇子(能除太子)が開山したと伝えられる。崇峻天皇が蘇我氏に弑逆された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入った。そこで、3本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて3山の神を祀ったことに始まると伝える。 蜂子皇子の都脱出には聖徳太子も尽力されたという言い伝えもあります。


出羽三山は、羽黒山(414m)月山(1984m)湯殿山(1504m)の3つの山からなりす。
昔から修験者や参拝者が集まる山岳信仰の場のようで、
三山それぞれは、現在・過去・未来を表しているとの事。

天宥社

羽黒山五十世執行別当天宥法印を祀る。
入口の燈篭は天宥法印の墓地のある東京都新島村より昭和63年6月7日に奉献されたものである。

境内御案内|出羽三山神社 公式ホームページ (dewasanzan.jp)

蜂子皇子

続柄 崇峻天皇第三皇子
出生 欽明天皇23年(562年)
死去 舒明天皇13年10月20日(641年11月28日)
父親 崇峻天皇
母親 大伴小手子


欽明天皇23年(562年)に崇峻天皇の第三皇子として誕生したと伝わる。崇峻天皇5年(592年)11月3日に、蜂子皇子の父である崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されたため、馬子から逃れるべく蜂子皇子は聖徳太子によって匿われ宮中を脱出して丹後国由良(現在の京都府宮津市由良)から海を船で北へと向った。そして、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸した。八乙女浦という地名は、その時の八人の乙女に由来する。蜂子皇子はこの後、海岸から三本足の烏(ヤタガラスか?)に導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたと言われている。


羽黒では、人々の面倒をよく見て、人々の多くの苦悩を取り除いた事から、能除仙(のうじょせん)や能除大師、能除太子(のうじょたいし)などと呼ばれる様になった。現在に残されている肖像画では怪異な容貌に描かれたものが多いが、多くの人の悩みを聞いた結果そのような顔になったとも言われている。出羽三山神社にある皇子の墓(東北地方で唯一の皇族の墓)は、現在も宮内庁によって管理されている。蜂子皇子 - Wikipedia

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