まぁ坊の気ままな旅日記

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世界遺産「観自在王院跡(岩手県・平泉町)」小阿弥陀堂跡と中間遺跡・大阿弥陀堂・西門跡・遣水、滝石組・車宿跡

[2021マッシュ春旅]2021年5月11日・平泉の文化遺産・県道31号
世界遺産「観自在王院跡(岩手県・平泉町)」
小阿弥陀堂跡と中間遺跡・大阿弥陀堂・西門跡・遣水、滝石組・車宿跡

観自在王院跡は奥州藤原氏二代基衡の妻が造営した寺院の遺跡です。大小二棟の阿弥陀堂跡の前面に舞鶴が池を中心にした浄土庭園が広がり、境内の背後には金鶏山が位置しています。近世までに往時の堂塔をすべて失い、庭園も荒廃して後には水田化しましたが、遺跡発掘調査の成果に基づいて伽藍遺構と庭園の修復・整備が行われ、今日の姿になりました。
境内跡は「毛越寺境内 附 鎮守社跡」(もうつうじけいだい つけたり ちんじゅしゃあと)の一部として国の特別史跡、庭園は「旧観自在王院庭園」(きゅうかんじざいおういんていえん)として国の名勝に指定されている。2011年(平成23年)6月26日、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の構成資産の一つとして世界遺産に登録されました。
(下図、毛越寺と観自在王院の配置参照)




2021年5月11日 晴れ 12時22分
観自在王院は天正元年(1573)の兵火で焼亡。現在の建物は享保年間に大阿弥陀堂跡に再建されたものです。舞鶴が池を中心とした浄土庭園の遺構はほぼ完全な形で保存され、今は史跡公園として整備されています。
関連史跡 │ 毛越寺 (motsuji.or.jp)

小阿弥陀堂跡と中間遺跡
鎌倉幕府の公式記録書「吾妻鏡」(あづまかがみ)の文治5年( 1189年) 9月17日条に記録された「中尊寺寺塔已下注文」(じとういかちゅうもん、中尊寺の項参照)に、阿弥陀堂「観自在王院は阿弥陀堂とも号するなり 基衡の妻の建立なり」とあるそうです。

吾妻鏡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文
『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。

発掘調査の結果、桁行約16.8m、梁間約7.2mの、東西に細長い堂であることが確認。
屋根は入母屋造りと想定。
大小二つの阿弥陀堂跡の中間には、東西約5.3m、南北約4.4mの範囲に方形の玉石敷があり、そのまわりに約3mおきに堀立柱列が南に廊下状に延びていました。
これは邸宅に付属する「泉殿」とそれをめぐる廊下と見られています。
このことから、観自在王院は貴人の邸宅を寺地として造営したものと考えられています。


現在、享保年間に建てられた大阿弥陀堂跡に小さな堂があります。
ここで春の藤原祭りの5月4日に「哭き祭り」(なきまつり)が行われます。

「哭まつり(基衡の妻=『吾妻鏡』によると安部宗任の女=の葬式を再現しているといわれる)
哭き祭りは奇祭の一種で、江戸時代から広く知られていたそうです。『菅江真澄遊覧記』で紹介されている。
その儀式は死者を悼んで掌の数珠をこすり合わせ、鉦や鼓を鳴らして大声で泣くそうです、(お葬式の無き女かも・・・)時代を経て、農民達が基衡の妻の事も忘れられた頃、農耕のための雨乞いの儀式として農民の間に伝わってきたものと思われてます。

菅江 真澄(すがえ ますみ、宝暦4年(1754年) - 文政12年7月19日(1829年8月18日))は、江戸時代後期の旅行家、博物学者。

大阿弥陀堂

観自在王院跡(かんじざいおういんあと)で最も大きいお堂です。発掘調査の結果、約10.6mの方形の堂のまわりに幅約2mの庇(ひさし)が廻っていたと考えられています。


『吾妻鏡』によると、堂の四壁には洛陽(京都)の霊地名所(京の加茂の祭りや醍醐の桜、宇治の平等院)が描かれていたこと、仏壇は銀、壇上の高欄は金であったことが記されています。

大阿弥陀堂に併設された小阿弥陀堂は基衡の妻の庵室で、障子の色紙に平安時代後期の歌人で書家の藤原教長の書が、内部には法華経や花見道具が置かれていたといいます。

藤原 教長(ふじわら の のりなが)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。藤原北家難波家・飛鳥井家始祖、大納言・藤原忠教の次男。官位は正三位・参議。







小阿弥陀堂の北側の場所に基衡の妻の墓と伝承される墓石(石柱)が立っていました。


観自在王院跡地蔵尊


西門跡

四脚門で、親柱を堀立柱とし、前後四本の軸柱は礎石が用いられていた。また、西南隅袖柱から南へ約1.2mのところにも堀立柱の穴があり、土塁と門との間には潜戸が設けられていたらしい。発掘調査によって検出された雨落溝の状況から見て、屋根は棟を南北に通した切妻造と考えられる。
境内の西を限る土塁に開かれた唯一の門であり、規模としては大きいものではないが、伽藍中心部に近いことなどから、日常の往来などに利用されていたと考えられる。


土塁跡


遣水、滝石組について

手前に少し写っている石が滝の石組み(滝石組)です。

別の角度から撮影すれば良かったです。(^_^;)

遣水ですが水が流れていませんでした。



車宿跡

車宿跡は身分の高い人物を乗せた牛車を格納するための建物です。発掘調査の結果、南北方向27.5m、(10間)東西方向4.6m(2間)と南北方向に細長く、柱の太さは約30㎝であること、床面は周辺部と同じ玉石敷きで、周囲には雨落溝が廻っていた事が分かりました。西側正面を除く三方は壁によって囲まれていたと考えられます。『吾妻鏡』には、「観自在王院の西、南北に数十の車宿有り」と記されています。この場所は、毛越寺と観自在王院に挟まれた幅約30mの広い道路にあたり、牛車を納めたり、牛をつなぐのに都合の良い場所だったと考えられます。


奥の敷地の境に低い石垣が積まれています。
雨落溝が廻っていた事が理解できます。

都から遠く離れた東のはて陸奥に、壮大な寺院と庭園、乗り物に牛車、名門貴族、藤原氏の血を受け継いだ奥州藤原氏だからこそ出来た偉業かも知れません。

30mの幅の広い都大路には、このような建物が立ち並んでいたかもしれません。

2021年10月5日 歴史公園えさし藤原の郷にて撮影


天気に恵まれて観自在王院跡の遺跡周りが出来て良かったです。
出来れば、もう一度訪れてみたいです。

当初の予定ではこれで平泉から出ようと思ったのですが、
道端で逢ったおじいさんの話の事もあり毛越寺に立ち寄る事としました。


2022年01月29日
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