まぁ坊の気ままな旅日記

ご訪問 ありがとうございます。<(_ _)>

軽キャンからピコ、マッシュに乗り換です。
節約旅行で各地の名産物を買ったりして
楽しんでいます。
宜しくお願いします(^_^)/

岩手・平泉・義経終篤の地「高館義経堂・芭蕉の句碑」名将、源義経公を激写しに来ました。 パシャッ! Σp[【◎】]ω・´)

[2021マッシュ秋旅]2021年10月06日・岩手県・平泉町
岩手・平泉・
義経終篤の地「高館義経堂・芭蕉の句碑」
名将、源義経公を激写しに来ました。 パシャッ! Σp[【◎】]ω・´)

衣川館(ころもがわのたて)は、現在の岩手県西磐井郡平泉町高館にあったとされる奥州藤原氏の居館でした。源義経の最期の場所として広く知られています。衣河館とも表記され、高館義経堂(たかだちぎけいどう)と言い、判官館(はんがんだて、ほうがんだて)とも呼ばれています。

2021-10-06・04

2020年秋旅の記事です。 (。^ω^。)ノ



2021年10月06日 11時28分 晴れ

無量光院跡を出て、館前小公園のトイレをお借りして一休み。ε-(*´ω`*) ホッ
小さな公園出て進むと高館義経堂(たかだちぎけいどう)の看板がありました。

進行方向にも道路工事の重機が見えます。景観事業の電線埋設工事かも知れません。

目的地、義経堂まで02キロです。

小規模ですが専用の高館義経堂駐車場があります。

駐車場から歩いて5分ほどで入り口付近に到着です。義経公や芭蕉が通った道です。

舗装された車道と階段があります。僕は階段を上って到着です。

此処にも案内板があります。

小さな石碑を  n[◎]コω・`)パシャッ! 

拝観券発行所までこの車道で来れます。

軽自動車から拝観券発行所の職員の男性が降りて来ました。
僕が参拝に来たのに気づいたようです。

毛越寺の拝観券発行所で入山券の代金300円を払いました。

昨年は200円で入れたので100円の値上げです。

今年も同じパンフレットを貰います。凛々しい顔つきの義経公が印刷されてます。

夕日の高舘からの景色、何度見ても良いものです。

今回の訪問の目的は、今まで撮影した義経公の写真がイマイチだったので
リベンジ―です。 (*^ω^*)ノ

良い写真が撮れますようにと願いながら石段を登ります。

途中にトイレがあります。義経公の撮影に集中したいので入り口だけの撮影です。

坂を上がりきると分かれ道の看板です。義経堂は後にして芭蕉の句碑に行きます。

久しぶりの光景を パシャッ! Σp[【◎】]ω・´)

何度見てもナイスな景色です。

芭蕉もこの景色を見て感動したかもしれません。

戦乱の彼方昔の出来事を思い、あの有名な句が生まれたんです。

夏草や 兵共が 夢の跡

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。・・・・・

頼三樹三郎詩碑です。

頼 三樹三郎(らい みきさぶろう、1825年7月11日(文政8年5月26日) - 1859年11月1日(安政6年10月7日))は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。諱は醇。通称は三木八。号は鴨崖。頼山陽の三男。


松尾芭蕉はここの景色から、中国の詩人である杜甫が「人間の栄華の儚さ」について詠んだ漢詩を思い出します。この時の様子が『奥の細道』には次のように綴られています。


「国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて、時のうつるまで涙を落としはべりぬ」


松尾芭蕉は、「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」という杜甫の漢詩の冒頭を思い起こし、旅の笠を脱ぎ置いて、しばらく涙を流したそうです。


松尾芭蕉は平泉の景色を見て、義経公、藤原一族を偲び、杜甫と同じように人間や人間の社会の儚さを強く感じて涙を流したと思われます。

※『春望』(しゅんぼう)は、唐の詩人・杜甫が安史の乱のさなかの757年(至徳二戴)春に長安で詠んだ五言律詩。冒頭の「国破れて山河在り」という句でつとに有名で、杜甫の代表作であるのみならず、日本で最もよく知られた漢詩の一つです。

記念の石碑に彫り込まれた芭蕉の句を詠んでその意味を想うと、
この地は義経公が身を寄せていた「衣川館」があった場所で、
この地で義経公が妻子とともに悲しい
最期を迎えました。
武蔵坊弁慶の最期「弁慶の立ち往生」の伝説などもありました。


芭蕉の句碑の反対側に進むと、いよいよ義経堂が見えてきます。

初めて見た時は、意外に小さくてこじんまりしているなと感じました。


向かって左の手摺が負傷して見ていて痛々しいです。

義経堂は天和3年(1683)、仙台藩主第四代伊達綱村公が義経を偲んで建てたものです。

お堂の傍に義経公のお墓、宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。

義経公の首は見聞のあと川に遺棄されたそうで鎌倉にはお墓が無いそうです。

宝篋印塔は昭和61年、義経公主従最期の地であるこの高館に、藤原秀衡公、

源義経公、武蔵坊弁慶八百年の御遠忌を期して、供養のために塔が造立されました。 

お堂の周りを n[◎]コω・`)パシャッ! 

日本には京都市左京区の鞍馬寺境内にも別の義経堂があります。
 n[◎]コω・`)パシャッ! 

ガラスで義経公を保存しています。
今まで何度撮影しても
光がガラスに反射して。。。。
よく撮影出来ませんでした。
(>ω<;)ふぅ・・・

今回は「上手く行きますように」と念じて  パシャッ! Σp[【◎】]ω・´)

 パシャッ! Σp[【◎】]ω・´)
           駄目だ、兜が・・・・・・

最後に    パシャッ! Σp[【◎】]ω・´)


兜姿の凛々しい義経公を撮影出来ました。ε-(*´ω`*) ホッ


義経公 撮影任務 無事完了です。(`・ω・´)ゝビシッ!


お堂の左下に義経必勝絵馬です。一枚600円です。

沢山掛けられています。願い事が叶うと良いですね。 (。^ω^。)ノ

義経公とお別れの時刻になりました。

義経公が見送ってくれてます。

もう、逢う事は無いと思いますが。

でも、来てしまうかもです。( ^ω^)よろしくだお

義経堂の近くにある資料館から若いカップルとワンコさんです。

今回も資料館に入りました。

前回と変わった変化は無いようです。

藤原氏と源氏の系図などが展示されていました。

奥州藤原氏は藤原北家秀郷(俵藤太)流を自称しており、その奥州での始まりは藤原頼遠(よりほ).頼遠の父親は卑しくも中級官僚であるのに、息子の頼遠が無官のまま奥州と言う当時の辺境地に赴いたのは、平忠常の乱に絡み、追いやられたのではないかとも言われています。

伝説義経北行コースの看板です。

真相はどうでしょう。

拝観券発行所まで来ました。

帰りは階段を降りないで舗装の道路から帰ります。

義経堂の駐車場に着きました。この道を真っ直ぐ歩くと道の駅に出れます。
マッシュの中では妻とビッケがリラックスです。

2021年10月6日 13時15分
今回のミッションを無事終わらせました。名残惜しい平泉とお別れです。
マッシュの点検をしてから次の目的地に移動です。


2022年09月18日
ご訪問ありがとうございます。<(_ _)>



×

非ログインユーザーとして返信する